【カメルーン通信No.12】

 

【カメルーン通信No.12】

~きょんきょん~

私、26年度2次隊には三人同期が居ました。私を含めて男性三人、女性一人の構成で、カメルーン隊の中で唯一の女性隊員の名前は白石今日美と言いました。男性隊員しかいない国もあったので私たちは「男しかおらんの可哀想やな~」と訓練中にその国の隊員たちに冗談半分で言っていました。

しかし、カメルーンに来て1か月も経たないうちに、この白石隊員カメルーンを去ることになりました。原因はアナフィラキーショックという症状でした。この国の食べ物にプルーンという、色は紫で、マンゴーのような形の食べ物があります。味は、、私はそこまで嫌いではないのですがあまり日本人の口には合わないようで、、モワッとしたちょっと変な芋のような、、。

この食べ物をカメルーンに来たばかりの時、ホームステイファミリーが出してくれ、食べたのが原因でした。朝食にそれを食べ、語学学校までの車の中で、腹痛に始まり、口、喉奥の痺れ、動悸がして学校にはなんとか到着はしたものの、倒れ、運ばれました。私は違うクラスだったのですが、先生が大声で叫び、私もその場に駆けつけました。顔面蒼白で、目の焦点は合っていなく、一目で危険と分るものでした。

JICAに連絡し、車で近くのクリニックまで運ばれました。クリニックに着いてから、呼吸が困難になり、血圧が低下して意識が混濁して、途中、2回ほど意識不明になったそうです。運ばれたクリニックは医療設備が整っていましたが、規模が小さく、その日の内に大学病院の蘇生室に搬送されました。4日間アドレナリンを身体に流し続ける治療を受け、アナフィラキーショックでダメージを受けた心臓と血圧を元通りにし、退院しました。

最初に運ばれたクリニックはフランス大使館付のオフィシャルなクリニックで、フランス人の先生がいて、設備が一番整った病院でした。そこで最初に適切な処置が受けれたこと。さらにそこから大学病院に搬送されるまで、道路で偶然渋滞がなくスムーズに運ばれたことでで、今回はたまたま助かった、と言われたそうです。

特にその日は、大統領の義理のお母さんが数日前に亡くなり、遺体を搬送するために道路の交通規制を敷くことになっていたそうで、もし搬送の時間がもう少し遅かった場合、大渋滞に引っ掛かり、大学病院には行くことはできなかった、とのことでした。倒れた場所が学校で人が居た事、たまたま道が空いておりすぐに病院に到着できた事。どちらか欠けていれば危険だったと言われています。

その後、JICAは任期短縮を決定しました。正直私はホッとしました。もし、カメルーンに残っているとまた同じようなことが起きるのではないかと考えてしまうからです。まずは命。仲間は絶対に失いたくない。元々体調の崩すことが多く、男性隊員間では本当に大丈夫かと危惧はしていました。なぜアフリカに派遣だったのだろうかとも話していました。けど私たちは根拠もなく大丈夫だろうとタカをくくっていた節もあります。日本の感覚で大丈夫だと考えていたのです。

病院に居る間はJICA職員から任期短縮になるかもしれないと告げられ毎日泣いていたそうです。退院後の隊員連絡所でも夜一人で泣いていました。彼女は私たちの同期の中で一番一生懸命で、真っ直ぐで、一番情熱がありました。それ故にここに残りたいとずっと懇願していました。「仕方ない」の一言で片づけるしかなかったのですが、本当にやるせない気持ちでした。このことをきっかけに私たちは先進国ではない国に居るのだと強く実感させられました。食べ物がどうとかではなく、「何が起こるかわからない」という事実。これを忘れてはいけない出来事になりました。彼女がしたかったことを代わりに私ができるわけではありませんが、彼女の分までやれるだけやろうと思います。

カメルーンに到着し、白石隊員帰国直前2

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